昭和41年07月07日 朝の御理解



 「畑で肥かけておろうが 道を歩いておろうが 神の中を分けて通りおるようなものじゃ」どこにおっても、神様のお守りの中にあるんだと。それが例えば、汚い事をしておっても、例えば肥かけなんかをしておっても、畑で肥をかけておろうが、神の中を分けて通りようなものじゃと。確かにそうなんですけれども、私どもの場合、私どもの場合じゃない、私の場合ほんとにあの日々がまあ、薄氷の上を渡るような思い。これ皆さんの場合はどう言う事になるだろうかと思うんですけれどね。
 神の中を分けて通りおるようなものじゃというところにはもう、ほんとの神様の御守護の中にあるんだとこう、喜びと安心で一杯の時だと思うんですよね。いうならば神様を信じ、同時に神様から信じられておるということなのですよ。そうですね、ところがこれは私の場合は、ね、確かにもう神様の絶対愛というか、絶対心というものがです、段々こちらにもでけてきた。神様の間違いなさにもう、ほんとにもうそれこそ、もう恐れおののく思いである。
 だからなら私も、神の中を分けて通りおるようなものじゃと、言う様な気持ちが頂けてよかりそうなものなんだけれど、私の心の中にはもうそれこそびくびく、戦々恐々薄氷の上を渡るような思いがすると。どこにそういう違いが皆さんあると思うですか。私その事にたいしては、自分ながら有難い事だと思っていたんですけれどね。最近はこれではいけないと。そこでならこれは、皆さんの場合はどうだろうかということです。
 神の中を分けて通りおるよな気持ちもあろう。場合にはその私が言う、薄氷の上を渡りおる気持ちの時もあろう。けどもそれが非常に薄いもの、希薄なもの、ね。ではなかろうか、でなかったら、もうそれは神の中を分けて通りおる実感も無からなければ、薄氷の上を渡るという実感もないというのが、大体は皆さん一般の方達の信心の姿じゃなかろうかとも思うんですけれどね。どうでしょうか、ね。
 神の中を分けて通りおるようなものじゃというのは、神様からお守りを受けておるんだという、いわゆる神様を信じるところから、ね。その生まれてくると同時に、神様から信じられておるというところから生まれてくるものなんです。ところがこれ私の場合を申しますと、なるほど神様を信じておるんだけれども、神様からは信じられてはいないというところに、戦々恐々、薄氷の上を渡るような気持ちというのがある、いわばついて離れんのじゃないでしょうかと思うです。
 教祖の神様はね、神を信ずる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと、ね。それはなら私でも、神様からここんところだけは信じられておるなあと。これだけは信じられておるな、というものもやっぱ無いじゃないある。御神徳とは神の信用じゃと仰るがんなら、私がまぁ御神徳らしい、御神徳じゃなくても、御神徳のようなものを受けておるから、少しぐらいは受けておる。受けておるからこそ、椛目に普通とは違った、一つのひれいというものがあるのである。
 けれどもなら、全面的に信じられておるかというと、私は信じられていないと言う床。それはどう言う事かというと、いよいよ自分が分かってきたか。こういう汚いこういう浅ましい、ね。こう言う様なものがあるんだもん、神様が信じなさるはずがないともう、こっちが決めておる。ですから是が段々とれて行く時、これが段々改まられて行く時、是がいよいよ磨きに磨かれて行く時に、自ずと神様に信じられておるという心やすさ。信じ又信じられておる、そこから神の中を分けて通りおるようなものじゃと。
 と言う様な、私は境地が段々開けてくるだろう。勿論これは私共が一生かけてそこんところを頂いていかなければならんのですけれども、また頂いていかなければ、頂いていく事でございましょう私も、ね。皆さんここんところを一つあのお分かりになると、信心がいよいよありがたいものになってくる、ね。神様は有難いという事が分かるだけではなくて、厳しいお方じゃと。いや怖いお方じゃと分かるようになると、信心がいよいよ佳境にいってくるといわれております。
 神様ちゃ有難いお方じゃある、という間はまだほんなもんじゃない、ね。神様はほんとに厳しいお方じゃ。神様は怖いお方じゃと。そこになら戦々恐々、薄氷の上を渡るようなものが生まれてくる、ね。そしてそこんとこを通り抜けさせて頂いたその先にです、神様とはありがたいお方じゃなと分かってきた時が、ほんなもんであり、神の中を分けて通っておるような実感というものが、頂けてくるのである。
 そこで私どもがです、限りなく詫びなければおられない、詫びなければおられない。これは私の信心というのは、もうどこまでもお詫びからお詫びから、といわれるのはそういうところじゃなかろうか。私自身が薄氷の上を渡るような思いでおるからである、ね。そこでんならそういう私でもです、このお詫びが徹底していけばです、私が謙虚に私が謹んで、ね。私が神様の前にお詫びしぬかしてもらうお詫びのしるしにという修行がでけておる間はだから、まぁやや大丈夫だということになるわけなんです。
 だから詫びなければおられんのであるということなん。でそこんところをみなさん、こう皆さんの場合、どのへんどういうところを通っておられるであろうかと、ね。神を信じる氏子は多いけれどもという、私ここの信ずるというところがまだほんとの事にはでけていないのじゃなかろうかと、ね。神を信じる氏子は多いというが、仰るがその多いという、いわれる中にもまだはいっておるのではなかろうかと、ね。私はこの人間の幸せというのはですね、親子が夫婦が、ね。
 友愛関係友人関係が人間関係がです、信じ信じられてこそはじめて幸せというものは成り立つと思うですね。自分が信じられてなかったら幸せは無いです。同時に信じる、信じられるということは幸せです。親が子供が信じられない。こんな不幸せなことはないですよね。はー今夜はおそかろありゃまた酒どん飲んじきよらせんじゃろうか。この頃主人がどうも帰りが遅いが、ね、よかっどんがでけておらんじゃろうかと、家内が主人を信用でけない。もうこんなに、いうなら不幸せな事はないです、ね。
 私はある時に、善導寺の親先生に申し上げたことがあった。もう信者の幸せはですね、親先生、もう親先生と親奥様から信じられるということですよと私は申しました、ね。ところが悲しい事には、私は親先生からも親奥様からも信じられてはおられないところに、私の悩みがあり、またそこには、んなら親先生親奥さんの悩みもあるわけなんです。大坪どげなこっとん言いよるじゃろうか。どげなことしよるじゃろうか。
 これは十五、六年前、秋永先生のところにお話に私は参りました時、それがはからずもですね、その共励会の時に、私が言ったということが段々こう枝が葉になりましてね、もうそれが私は信用、その私は共励会あの時分にずっとお話に回っておりました時に、信用を落としたわけなんです。ところが真実のことが分かっておらんのではなかったんだ。例えばお取次ぎの御結界というものを、私は善導寺で、手を叩いてから拝むようになったのは、あの時分はそんな事はしよりませんでしたもんね。
 私は北京から帰らせて頂いて、もうほんとにその御結界を拝む、金光大神がここにいましますという気持ちで、もう拍手うたがずにおられなかった。いわゆる親先生をそがしこ拝みきっておった。ところがです私が拝みよるのはほんとなもんじゃない。最近はどうも、私はほんとに親先生が金光大神として拝めなくなった。私はこういう話をしたんです。ところが大坪はもう私を拝まんごつなったというのが、もう一番初めのもとでしたよ。実をいうたら私、私はそういう意味じゃなかったんです。
 私私の信心はもう、もっとより進んだつもりだったんですよ、ね。柏で打ってからと言うておるだけなら誰でもできるのだけれども、形じゃない心でそれができなくなったというところに、私の信心のいわば進みがあったんです、実をいうたら、ね。まぁ一事が万事そういうなことでございますから、私、椛目が信じられていないということは、私が信じられていないということはです親先生、親教会、または出社とこんな不幸せな事はないです、ね。親先生信じてください。でないと私は仕事がしにくいって。
 大坪はあげなこと言いよるが、親先生はどげん思いなさっちゃろうかと、顔色ばっかり見てから話さんならんごたるなら、とてもほんとのことはできやせんて。私はそういうことも申しました。あちらのご長男があの学校に勤めておられますが、帰って見えられた。そして親先生の前に新聞をぽーんと投げられた。したら親先生ひとっつも引っ掛られないんですね。またその新聞を拾ってからご覧になりますです。
 もし私がしたならどうだろうか。(親を )というなことになりゃせんじゃろうか。ある意味親子である所に、そういうものが全然無いのです。私もここまで親先生、私と貴方の中が高められていきたいと思うという、だから私は気持ちだけはいうてあるけれども、なら私が信じられていないのです、ね。そういういわばざっとした事の中にでも、いうなら家の子供にだけは間違いない、大坪のする事には間違いないと、もう信じられるという所にです、私は仕事がしようかです。御用が頂きよういです、ね。
 親先生からにらまれておる。親先生から疑われておる。そこにはもう全然身動きがでけないです、私としては。まぁ現在そういう状態なんですけれども。信じ信じられるということ。これはましてなら肉親関係の場合でも、ね、夫婦の場合でもそうです。友人関係の場合でもです。例えば信心する人があるとします。なら例えて言うならば、あの善導寺の原さんなら原さん。もう原さんていう人はろくな人じゃなかですよっち、誰かが進言する人があったとするか。
 もうあのひとはこのごろ信心のもう落としてしもうちゃる。と誰かいう人があるとしますか。ところが私がなら原さんを信じてある。誰がなんと言うたって間違いなかがのっち、言えれるところに私の幸せがあり、原さんの幸せがあると思うんですよ、ね。そういう例は椛目でもいくらでもありました、ね。よかがのっちほうからかしときなさい。あの人にかぎって間違いなかっと、私が信じられるその人を信じておれれるということはです、私の幸せだけじゃなくて、信じられておる人の幸せ。
 これがまして親子の場合なんか尚更の事。夫婦の場合なんか尚更の事。いちいち親子が言い分けせんならん。いちいち夫婦がもう今日はこげなう風で遅なってから、こうじゃったあぁじゃったと言うてその、アリバイを立てて説明しなければ家内が信用しないと言う様な事ではあっては、ほんとに主人としての仕事がしにくいです。いいえ家のお父さんだけはどこでどげんしよんなさっても、誰が何というても家のお父さんにだけは間違いがないとこう、家内が信じてくれた時に初めて主人の幸せがあるのです。
 これは人間関係の場合。んならいわゆるこれが神様関係。いうなら私どもと神様という関係においてですたい、信じる氏子は多いけれども、神を信じる氏子は多いけれども、神から信じられる氏子が少ないと仰るが、そんなら私のこれの場合でもです、神様から信じられておるかというと、ね、これはほんとに危ないもんだと。その証拠に私の心の中に、神の中を分けて通りおるようなものじゃという実感がないもの。あるものはもうこわごわと、薄氷の上を渡るような思いしか私の心にないという事。
 かというてんな神様をそりゃ信じておるからそれない。もし神様に信じられていなかったらです、私がどんなに改まらなくても、どんな汚いものもっておっても平気でしょう。それこそ盲蛇に怖じずなんです。分からんからそこんとこ平気でおれれると言う所からです、神様が分からして頂、頂く様になると、自分というものを厳しく見るようになる。そこから改まりができてくる。そこからほんとの謙虚なお詫びの信心がでけて来る様になる。そこには必ず過程とした、ね。
 薄氷の上を渡るような、戦々恐々とした気持ちが、神様は有難いおかたじゃなあと同時に、神様は怖いお方じゃなぁ、一つ間違うたらこういうことになるのだから。私が間違われん、いやところが実際は間違うとる。間違うとるところが分かるから詫びなければおられんのである。神様におおめに見てもらわなければ。神様に許して頂かなければでけない私なのである。そこにお詫びの信心というのがある、ね。
 そして私が改まられていくにしたがってです、私の心の中に、段々神の中を分けて通りおるような実感というものが頂けてくるようになってくるところにです、神様から信じられておるな、信じられよるという自信がついてくるわけ、ね。ですからこれはまあ皆さんの信心というものをです、どの程度のところにおいておられるか、いやあるかということをです、思うてみて、ね、神様をまず信じれれるところの信心に進まなければいけません。いやあもう神様を信じとります、という信じておる。
 それは嘘ではなかろうけれども、その信じておるという度合があります、ね。このくらい信じておるのならやっぱり信じておるのであり。このくらい信じておるのも信じておるのであり、ね。もう絶対とこう、言う様な信じ方もあるのですから、ね。神様のそこの絶対というところまで、神の絶対愛を信じる。神様を絶対いわゆる確信が持てれる。この神様は、こういう生き方でさえいきゃおかげは頂けると確信がでけれる。ところがそういう確信を一生持ちつづけただけでは、ほんとな事じゃない、ね。
 私はここばこう改まりゃあおかげをいただけれるということは、分かっただけで一生改まらなかったら、やっぱ一生そのままじゃないですか、ね。ですからここが私はでければ、ここが踏ん切りがつけばおかげが頂けれると確信がでけれと同時に、それが段々改められていき、ね、踏ん切りがつけられていくところにです、神様から信じられるものが、度合が段々大きくなってくる。
 そこに神の中を分けて通りおるようなものであり、神徳の中に生かされてあるというところの、ほんとの喜びというものが、段々頂けて来る様になるのです、ね。そしていわゆる、人間関係の上においてもそうですけれども、果して自分は家内に信じられておるであろうか。子供に信じられておるだろうか、ね。もし信じられていないとするならばです、信じられないものが、そこになにかある。私は善導寺の親先生親奥様に信じられていないというのはです、確かに私が大野心家ですからね。
 もうそれは皆さんも、私の腹の中を聞きなさるならびっくりしなさるじゃろうというぐらいに、私野心家です。もう大野心家です。そう言う所がちらちらっとやっぱり、幾ら言わんでも覗くんですよ、ね。だからそのそこんところを私、まぁ疑われておるのじゃなかろうかと思うんです。けれどもね私の心の中にはです、それこそ小さい欲は捨てるけれども、大欲に生き抜かせて頂く事に、これが私の信念でございますから、ね。小さい欲は捨てさせてもらおう。
 けれどももうそれこそ神様から喜んで頂く様な、大きな大欲。私がよくちらちらそのことえをのぞかせるのは、私はどうでもこうでも日本一を目指しておるということ。そりゃ日本一の教会とか、日本一の大徳の先生という意味じゃあないです。もうほんとに日本一ありがたい私にならせて頂こう。私はそういう野心をもっておるです、ね。そう言う様なことがちらちらのぞく。そこんところに私はなにか、不純なものが相手に感じさせるのじゃなかろうかというふうに思うのでございますけども。
 これはしかし今の私としては、捨てるわけにはまいりませんのでございます、ね。これは私と皆さんの場合でもそうです。私と皆さんが信じ信じられるところまでいくためには、どういう信心、あり方にならせて頂いたら良いか。なら毎日参ってきよるから私は信用、信じておるというわけにはいきませんです。月のなんべんかしか参ってこんでも、私は絶対信じておるという人もたくさんあるです、ね。
 ですから私と皆さんが信じ信じられる。先生に疑われたらもうおしまいです。けれども、私をそこまで信じておる人はどれだけあるかというたら、それもまたたくさんのことはなかろうと私は思うんです。だから私もいよいよ、皆に信じられる私になるということと同時に、私もいよいよ皆さんを信じさせていただけれる、間柄に育てていかなければならない。同時に神様から信じられる私。
 為にはまず神様を信ずる、いわば神様を確信でける、信じれれる私どもにならせていただく信心がまず必要であり、私どもがいよいよ、限りなく改まらせて頂こうという願いを持ったところからです、神様から徐々に信じられてくるところの喜びがです、それが、神の中を分けて通りおるような、いわばやすらぎの実感というものが頂けてくるようになる。そこに本当の私どもの幸せというのがあるというふうに思うです。
   どうぞ。